直径六寸

傍ら三寸くらいまでの諸々について

演劇の苦手な僕が、小瀧望を見つけられない。

気づけば、2020年もあっという間に終わってしまいましたね…。なんとも訳の分からん年だった。今年はどんな年になるのかな~??

な~んて考えてたら、2月になってました。時間、俺を置いて勝手に進んでいくな。マラソン大会の女子か。

このブログ、どうも2020/2/5が記念すべき初投稿らしいので知らぬ間に丸一年を突破していたらしいっス。一年を経た公開記事件数はこれを抜いて14件。

え、少な……………。

しかも前回の投稿が11月とかなので二か月以上放置してたことになってるんよね。ブログ向いてないからやめた方がいいよって感じだけど、まあ、たまには長文でつらつら思いの丈を吐き出す場所が自分には必要らしいのでわざわざ止める必要もないでしょ。

とは言え、決してこのブログの存在を忘れていたわけではなく。実は昨年12月に一度生まれた衝動をどわーっと文字に起こしたことがあったんやけども、なんとなくまとめきれずに下書きに放置してた記事ってのが一件ありまして。今回はそれをリメイクすることにしました。特に深い意味はないし、うまくまとめ直せたわけでもないから相も変わらず読む必要はないです。

このブログに行き着いてしまったどっかの誰かへ。あなたの限りある貴重な時間は、もっと別の何かのために有効に使われるべきだと、そう思います。

 

 

 

幼い頃から書物を読むことがとても好きで、文字(時には絵)を追いかけるとともに物語を辿っていく作業というのは、自分にとっては趣味や娯楽というより生活の一部といっても過言ではなかった。なかった、等と過去形を使っているが、これは現在でも変わらない。

 

しかしながら、舞台とかミュージカルとか、そういう演劇の類とはてんで相性が悪かった。学校の課外学習の一環として某劇団のミュージカルを見に行った時には気が付けば最後の挨拶すら終わっていたし、能(だったと思う。多分。それすら曖昧だ。)とかそういう日本の伝統芸能の何かを見に行った時も、かなり序盤から意識を失っていたし、学校の体育館で行われた人形劇の鑑賞会も、文化祭で披露されていた生徒による舞台演出も、これでもかというほど記憶がない。

これはあくまで推測の域を出ないが、劇の幕が上がると同時に見えない何者かに背後から後頭部を殴りつけられ、痛みを感じる間もなく気絶する呪いをどこかでかけられているのだと思う。断じて、睡魔などというふざけた輩に屈しているわけではない。

 

とまあ、こんな具合であるから、自分の推しが登場している舞台というものもほとんど見に行ったことがない。「推しが出ているから」という理由それのみで見に行くのもアリかなと思ったりしたことも勿論あるが、やっぱり相性の悪さを自覚しているものに無理を決め込むのもなんか違うな、という判断から舞台の類とはあまり縁がなかった。

実際、推しの出ている何らかの舞台や演劇それ自体、或いは舞台や演劇のDVDを見るときには、「推し君の顔がいいよ~ン」だとか「この舞台装置ってどういう仕組み?」「今の演出ってどんな仕掛け使ったの?」だとか「あのお客さんめっちゃ泣いてんな」だとか(最後に至ってはもはや舞台に対する感想ですらない)とにかくメタフィクション的な目線で見てしまうのだ。そうでなければほとんどの時間が気絶。まさに芸術への冒涜であり、シェイクスピアもこの悲劇には涙を流しているに違いない。

 

だから、かなり迷った。

エレファント・マン THE ELEPHANT MAN』の配信を見るか否か。

 

小瀧望くんが主演の舞台であるということで「推しのために見る」という選択肢は当然あった。しかし、内容が内容なだけあって今まで推しが出ているからという理由で見てきたコミカルな舞台やミュージカルとは違いメタ的な目線で楽しむのには限界があるに違いない。また、配信ということで、劇場のフカフカな椅子に身を委ね気づかぬうちに瞼を閉じて夢の世界へと誘われる、なんてことはないにしても、あまり集中せずに流し見になってしまうのは嫌だ。

さあ、どうしよう。見るべきか、見ざるべきか。

迷いながらも、エレファント・マンという話の内容そのものを調べるうちに、舞台演劇としてではなく、純粋にエレファント・マン改めジョゼフ・メリック(敬称略)という人物の伝記そのものに対してはひどく興味を惹かれていった。また、過去の映画作品等とは異なり特殊メイク等を施さずに演じているという点に非常に関心が生まれた。この際なので正直に言ってしまうが、ざっと人物像を調べた時点では、小瀧くんという容姿端麗な青年を起用した上、特殊メイクも施さずに彼を演じるのはあまりにも“無謀“な演出ではないか、と感じたのだ。そもそも演劇の世界に入り込んでその世界観を楽しむことが苦手な自分なのだから、小瀧くんにエレファントマンを投影することはもはや不可能の域にあるのではないだろうか、と。

ならばむしろエレファントマンを鑑賞する価値はあると踏んだ。

メタフィクション的な見方でも構わん。どういった演出が施されているのかに興味を持ってしまったのだから、その解明のために見てみるという判断には一理ある。見よう。やっぱり演劇が苦手だなという結論に落ち着くならそれもまた一興。

 

この決断を下した過去の自分を「天才」と呼ばずして、何を天才と呼ぼうか。

 

結論から述べると、自分は『エレファント・マン THE ELEPHANT MAN』の鑑賞中、間違いなく演劇の世界に入り込んでいた。舞台装置だとか、演劇の構成だとか、演出の方法だとか、役者の演じ方だとか、そんなものに注意を向ける余裕はなかった。そこには自分が応援する容姿端麗な青年としてはおろか、役者としての「小瀧望」の姿さえ、どこにもなかった。舞台にいる彼は、ジョゼフ・メリックだった。

初めての感覚だった。決して、容姿外観が「小瀧望」を逸脱しているわけではない。確かに「小瀧望」であるはずなのに、そこに彼は見つけられない。これが〈演じる〉ということなのか。

見終わってからの演劇そのものに対する感想は純粋な「すっげ~な」だけだった。めちゃくちゃイカした感想とか、それこそ最初に懸念していたメタフィクション的な目線の感想は一つも思いつかなかった。なんか、よく分からんが、すごいもん見ちゃったな、っていう、ただそれだけだった。

エレファント・マンの内容そのものについては、それはもういろいろなことを考えさせられた。舞台を見てから、かれこれ二か月が経過しているにも関わらず、未だにふと思い出しては内容の諸々について考えこんでしまったりもする。

一つ、印象的なセリフに「慈悲深いことがこんなに残酷なら、正義のためにはどんなことをするんです?」というものがあった。このフレーズに対して、今から自分の解釈をバカ丁寧に文字化していくつもりは毛頭ない。単に自分のためのメモ書きのようなものとしてここに記しておきたいだけだ。ただ、このワンフレーズだけをとっても、思考は瞬く間にぐるぐると回りだす。そして、「ゆがんだ過去。偽りの現在。ゼロの未来。」エレファント・マンという人物を表す残酷で的確な文句に、思考は完全にフリーズしてしまうのだ。心の痛みというのはどうも思考を止めるトリガーになり得るらしい。絶え間ない思考活動を「享楽」として認識してきた自分にとって、考えることが辛いと感じたのもまた、初めての経験であった。

 

演劇が苦手だとか、そういうものを超越した「なんだかよくわからないけどすごい」作品に出会えて、自分の中の演劇へのイメージというのは少し変化したような気もする。

しかし

これを機に、ほかのいろんな舞台作品を見てみたいなと思いました!

なんて、小学生が生み出す100点満点の感想文をここに提出する気はさらさらない。恐らく自分の演劇との相性の悪さはたかだか一回の配信を見たくらいで改善されるような簡単なものではない。仮にこの先どれだけ好きな役者が出演者として名を連ねていたとしても、興味が湧かないとなればもう二度と演劇と触れ合う機会はない可能性も当然にある。だが、悩んだ末、この舞台配信の鑑賞を決意したあの日の自分の判断は、やはり非常に賢明かつ賞賛に値するものだったと言って差し支えないだろう。この作品に費やした約3時間弱という短い時間は、人生において大きな意味を持つ価値ある時間であったと、自分はそう確信している。

 

そして、この衝動を改めて文字にまとめ直そうと思ったきっかけに、読売演劇大賞杉村春子賞への小瀧望君の選出がある

下記がその記事。ついでに推しの活躍を見て欲しいってな感じで広報なんかしちゃったりして、テヘ。

www.yomiuri.co.jp

 

さあ、これを踏まえた上で敢えてもう一度言わせてもらおう。

舞台・演劇を苦手としながら、『エレファント・マン THE ELEPHANT MAN』の鑑賞を決意した自分は、誰が何と言おうと間違いなく天才だ。あの日、迷いを断ち切った自分にありったけの拍手と感謝の意を示したい。

そして最後になりましたが、小瀧くん、受賞おめでとうございます!

演劇が苦手であることに変わりはないけど、推しの躍進劇は大好きだ、なんつって!HAHAHA、何が伝えたかったのか分からんくなってしまったのでオワリ。