直径六寸

傍ら三寸くらいまでの諸々について

でも幸せならOKですなんて簡単に納得できないよ、人間だもの。

アイドル、ここでは便宜上、Rくんと呼ぶことにしよう。このアルファベットに深い意味はない。とにかく、Rくんが「ある一定の年齢を過ぎたときに結婚が許されるのか」(これはかなり噛み砕いた表現なのでニュアンスはもうちょい違う)といった話題を雑誌を通してファンに投げかけていた。まあ、ファンに投げかけていたと言っても、雑誌でのインタビューの一環だから多少本人の言葉からはズレて編集した人の言葉に塗り替わってしまっているだろうし、特に深い意味があったわけでも、ファンに対してその答えを心から請う意図があったわけでもなかったのかもしれない、多分。いや、だって、知らんやん。ただの雑誌の一文からRくんの本心が読み取れたらすごすぎるやろ、超人か。

とにかくその話題に関して自分はここ数日いろいろ考えた。これちょっと辛いのが、考えたくて考えてたわけではなくて、どうしても頭から離れず考えざるを得なかったという点なんやけど、そのモヤモヤはいったん横に置いておく。頭の片隅で熟考する中でなんとなく自分にとっての答えが見えた気がする、ので、ここに記していってみようかと思う。支離滅裂な文章になる可能性も否定できないので先に謝っときます。ゴメンネ!

まず本題に入る前に。ここから先の文章は思いっきり自分の主観かつ偏見だから、この考え方を誰かに強要するつもりなど勿論ないし、反対意見が山ほど存在することも理解しているし、特に誰かに読んでほしいとも思わない。なんとなく吐き出したいけど綺麗な言葉を列挙していくわけじゃないから誰かに聞いてくれとも言えないし、じゃあ折角だしここにでも書き殴っとくか、くらいの気持ち。そういうことなので、普通に何かしらの手違いでこの記事に行き着いた人は即刻Uターンしてください、マジで。時間は有限なんやからもっと有意義な使い方をしてほしい。これを読まないことで君は今日30分は早く眠りにつくことができる。即ち、30分多く睡眠をとることができるってわけだ!(どうせ30分早く寝たところで30分早く起きたりはせんやろ?俺はせん)何度も言うがブラウザを閉じて早く寝てしまった方が数億倍も価値があると思う。

寧ろここまで読んでくれたんやとしたらホンマにありがとう!とだけ。

 

さあさあ、推しの結婚。これホントに次元やらジャンルやらを問わず全界隈のオタクがどこかしらで向き合ってきたであろう話題だと思うんですよネ。

特に三次元、所謂「芸能人」とかって呼ばれる人間が推しの場合はより一層複雑さが増す気がする。だって相手は同じ人間だもの。

というのも、二次元のキャラクターの場合、彼ら彼女らの主観ってのは作者とかいう言っちゃえば神さんみたいな存在に全て委ねられていて、彼ら彼女らが自分から主体的に思考して誰かを想ったり、恋仲になったり、結婚したりするわけではない。異論は認める。(これは本当に現実に即した観点から考えた場合であって、自分も次元が違えど推しは「生きてる」と思っているし、作者へのリスペクトは勿論あるけど、作者の話題展開要素じゃなく、あくまでも推しそのものの動向を追いかけたいと思っている。そりゃ当然。ただ、今はそれとこれとは別の話ってだけで。)とにかく、二次元の推しが誰とどう恋愛とかを繰り広げていくかというのは作者=神さんの構想次第であって、物語の展開によっては恋愛描写が盛り込まれるというのは仕方ない部分も多い。

例えば、恋愛漫画の主人公を自分がガチで好きになったとして、ヒロインとくっつくな!ってのは無理な話やんか。祝福せえよ!とは全く思わないけど「なんでくっついたんですか!」って作者に文句を言うのもちょっと変。これは恋愛ものに限らず、ジャンルがバトルだろうがギャグだろうがその他諸々だろうが、どれも等しく神さんの采配で登場人物の関係性ってのは決定づけられていく。どうしてもその展開が許せないなら、読むのを止めるしかない。自分も某海賊漫画のコックさんが結婚するかもしれない状況になった時、その先の展開が判明するまで漫画を読むのを中断した経験を持っている。その時は別にガチ恋勢だったとかじゃなく、単純に自分の中のキャラへの解釈と結婚っていう字が結びつかず、どうしても結婚が受け入れられなくて読むのを中断したってだけなんですけど、まあでもガチ恋勢と似たようなもん。

ところが、三次元の推し(身の回りにいる一般人の推しにまで話題を広げると話がとっ散らかるのでここでは「芸能人」だけに焦点を絞ることとする)ってのは同じ「人間」であるからして、その主体性は推し自身に帰属する。人間も神さんが作ったもんや!とかその辺の主張を持ち出すのはややこしくなるからここではやめてくれ。そして、同じ人間であるという前提に立つからこそ「芸能人も同じ人間なんだから」というありがちな主張を一切排除してしまうことにする。

芸能人が同じ人間なのは見れば分かる。一般人に比べてそりゃあ華があるとは言え、どこからどう見てもサル目ヒト科ヒト属。だから、ただ注目すべきは「芸能人」というその枠組みだけであると考える。「芸能人」というカテゴリに属することを決めたのは他でもない当人であるはず。多少、強引なスカウトだったり親の意向だったりに左右される場合もあるだろうけど、それでもその道で生きていくと決めたのは自分自身なわけで、だからこそ「芸能人」として生きることを決めたなら周囲から求められるものを提供する「必要」がある。これは芸能人に限らず、まったく異なった職種でも同じ。極端な例になるかもしれないが、消防士ならば火を消す必要があることとアーティストならば歌を提供する必要があることは同じであるということがここで言いたい内容。ただし、これは強制された上での「必要」ではなく、選択の上での「必要」であるという点には注意していただきたい。火を消すのはその人の使命じゃなく消防士として食うためであり、歌うことはその人の使命じゃなくアーティストとして食うためである。これができないならば、辞めるしかない。他に食う道を探すしかない。趣味として行うならば話は別だが、職業として選択したならば求められる功績を達成しなければ給料は支払われない。これが現実である。

非常に回りくどい文章になってしまっているんやが、端的に言えば「芸能人」は「芸能人として求められること」を行う必要があるんや!ということを自分はハッキリと主張しておきたい。芸能人の恋愛という話の主軸から逸れているのではないかという批判も甘んじて受け入れよう。気持ちはわかる。が、ちゃんと軌道修正は視野に落とし込めているので安心してほしい。

言い訳している暇があったら次に進もう。

芸能人と一括りにしてしまっていてはこの先の論は展開できない。芸能人の中にも色々なジャンルが存在する。役者、芸人、歌手、ミュージシャン、声優、ダンサー、アイドル、etc...。挙げ始めるとキリがないが、各々は求められているものが異なる。役者ならばドラマや舞台での演技。芸人ならば笑い。音楽家ならば、音楽。声優ならば声。ダンサーならば踊り。芸能人は各々、その形態によって求められているものが変わってくる。そして、真に求められているものが提供できているのであれば、芸能人として100点の功績を収められているということになるのではなかろうか。つまり、求められるものが滞りなく提供できている限り、芸能人の恋愛というものには少なからず目を瞑る必要があると自分は考える。恋愛にうつつを抜かしたせいで演技力が落ちたとか、音楽の質が落ちたとか、そういったパフォーマンスの質が落ちているのであれば、多少の非難を受けることも仕方ないかもしれないが、そうでないならば、ファンがお金を払うだけの価値が彼ら彼女らからの提供物に存在しているという事実は覆らない。それでもやっぱり彼ら彼女らの恋愛が許せないという意見があることはよく理解できる。前述したことと矛盾しているといわれるかもしれないが、自分だって好きな役者さんだったり、声優さんだったりが結婚するとなればやはりどこか複雑な気持ちも持ち合わせてしまう。それらの感情を持つことは仕方ない。これは絶対に誰にも咎められない。だからこそ感情論でこの話題に決着をつけることはできないと自分は判断した。「応援できるのが本当のファン」だなんて理想の押し付けは「結婚するなら応援できない」という感情論への対抗措置として何ら力を有しない。感情ではなく、事実に着目すべきだ。芸能人である彼ら彼女らのパフォーマンスが恋愛を通してどう変化したか。ただそれのみによって評価すべきだ。もし自身の中で、彼ら彼女らを応援したい気持ちに対してどうしても彼ら彼女らの恋愛に対する嫌悪という感情が勝ってしまうのならば、先述した二次元よろしく自分から彼ら彼女らのファンという立場から身を引くという選択を視野に入れる必要もあるのだろう。感情論というのは感情論によっては勿論、理論によっても制することは不可能だと思う。

ここで、求められるものの定義が困難になる存在がある。所謂「アイドル」だ。役者から歌手・ダンス、更にはバラエティに至るまで今日のアイドルの活動というのは幅広い。各々が活躍する各分野で求められる功績をあげていくことは当然であるとして、彼らが真に提供しているものは何か。これが今回の最大にして最後の論点である。「アイドル」が提供しているもの、(ありきたりな言葉になるが)それは「夢」ではなかろうか。ただ、個人的により適していると考えられる表現として、少し後ろ向きな意味になるかもしれないが「虚構」という言葉を使わせていただきたい。

分かりやすい例を挙げよう。アイドルがファンに対して「愛してるよ!」と言ったとする。この言葉がウソかマコトか。問題点はそこではない。「愛してる」という言葉それこそがファンがアイドルに求めているものなのだ。馬鹿馬鹿しいと嗤う人間も勿論いるだろう。恋人でもない、言ってしまえば他人からの「愛してる」には確かに何の意味も無いかもしれない。だが、本来は無意味である他人からの「愛してる」に意味を持たせること、それこそがアイドルの仕事の本質ではないだろうか。アイドルが「愛してる」という言葉にきちんと愛を込めているとファンに「思い込ませる」こと、即ち「虚構の演出」がアイドルの提供すべきものであり、アイドルという職業に対して周囲が求めているもの、言っちゃえば生計の手段である。

ここに恋愛が絡むと、先ほどまでの他の芸能人とは意味合いが大きく変わってくることは言うまでもないだろう。アイドルが「本当の」愛してるを使う相手がいてはダメなのだ。アイドルも同じ人間だから?恋愛をするのは仕方ない?当たり前だ。これは決してアイドルに想い人がいることを非難しているのではない。想い人がいることをファンに悟らせていることを非難しているのだ。虚構の演出はどうした?夢を売る仕事を辞めてしまったのか?我々ファンは「アイドル」である推しにお金を払いたいのだ。彼ら彼女らの演出する「虚構」に陶酔していたいのだ。ずっと脳内お花畑のままアイドルの○○君、△△ちゃんに夢を見続けたいのだ。その虚構の中にアイドルの中の「本物」をチラつかせられるから、現実を見据えさせられ、自分の好きなアイドル自身にきつい言葉を嘆かざるを得ないファンが生まれてしまうのだ。そういったファンを作り出しているのは他でもないアイドル自身だと自分は思う。

誰の目も憚らず、大々的に恋愛をしたいならば「アイドル」という仮面は脱ぎ捨てなければなるまい。その時に「アイドル」である彼ら彼女らを応援していたファンが、ファンでなくなることを誰かが責めることはできない。アイドルという虚構の演出の中に本物が垣間見えることを気にしないファンがいることもまた事実であることは否めない。だが、それはただ気にしないだけである。恋愛が絡んだ時点で「アイドル」として100点の功績、即ち完璧な虚構を打ち出すことはアイドルには不可能なのだ。本物を気にしないファンを繋ぎ止める術はいくらでもあるだろう。虚構への陶酔を諦めたファンをかなぐり捨てて進むことを誤りだと言い切ることもできない。ただ、それはもはや100点のアイドルとは言えない。

Rくんの問いかけに答える形で論をまとめるならば、Rくんが自分をアイドルだと言うのなら結婚が許されるタイミングは決して年齢ではない。アイドルを辞める、ただその時だけだろう。ファンの認知しえないところで勝手に誰かと恋仲になり、勝手に結婚することだけがアイドルに許された恋愛であると私は考える。アイドルである限りは全てのファンに許される瞬間などどこにもない。

Rくんのことが好きで心から応援したい。その気持ちに偽りはない。が、アイドルだというのならば全身全霊で虚構を演出してほしい、そしてどうか、Rくんがアイドルである間くらいは、その虚構に陶酔させてほしい。この文章はファンの願いなどではなく、一人の消費者として、彼のそして彼を含めた全ての芸能人のパフォーマンスに対する要請である。

なんて、偉そうに書いてみたけど、自分の好きなアイドルに愛されたたった一人がただただ羨ましいという気持ちがあるのは事実だし、その相手に対する妬みだったり僻みだったり、そういった醜い感情が少なからず存在してることも勿論理解してる。理解してるけど、やっぱりアイドルなんだから夢見させてくれよって、見えないところで嘆くことくらいは許してほしいなあ…。