直径六寸

傍ら三寸くらいまでの諸々について

要約すると半分超えたあたりでポテチっていつの間にか消滅するよねっていう話

癒しを実感できる場所という名目において、自然物が人工物に劣ることはない。と、私は常々誤解しがちだが、それが大きな誤りであるということを、どこかしらに出かけるたびに思い出す。

自然物の作り出す環境というのは、まず間違いなく癒しの効果を有する。夜空いっぱいの星を見るとき、滝が激しく落水する音を聞くとき、山の頂上で緑のにおいを胸いっぱいに吸い込むとき、動物のやわらかい毛並みをなでるとき、etc...。列挙し始めるときりがないけれども、とにかく、心が疲れた時には自然の中に身を投じたい衝動に駆られる。

しかし、自然の中に身を投じるためには、いま自分が忙しなく行き来する都会の雑踏から抜け出さなければならない。より遠くへ。便利なアイテムを全て置き去りにして、何もない場所へ。もっと遠くへ。

この「遠く」に行くという行為。存外難しい。

スマホの電源を何日も切り続ける?想像しただけでも恐ろしい。車の音すら聞こえない場所に身一つで向かう?絶対無理。ポテトチップスが食べられない?そんな人生、きっと悲劇の物語であるに違いない。

置き去りにすることはイコール置き去りにされるということだ。便利なものを体から引き離してしまう、この社会の中でそのような恐ろしい状況に進んで身を投じられる人間はそうそう居ないだろう。少なくとも私には無理。絶対に不可能だ。置き去りにされるのはやはり怖い。

 

そして、そもそも癒しの空間が自然空間と直結しているという認識が誤りなので、そこを正せば幾分気は楽になる。

幸せだぁ~と思える癒しの空間というのは、何も自然界の中だけにしかないわけではない。美味しいものを美味しいと実感しながら食べる時間。キラキラと輝く街明かりをぼんやりと眺めている時間。露天風呂に入っているときの、火照った頬を少しだけ冷たい夜風が撫でているる時間。枕元にだけ明かりをつけた薄暗い部屋でタイプ音だけが聞こえる今この瞬間。

「この時間が永遠に続けばいいのに。」

陳腐な言葉だが、この言葉に尽きる。

自然界に出かけたときのほうが、この感情を自覚しやすいというだけの話で、この感情に触れる瞬間は、どこにでもあるのだ。

これだけ意気揚々と語っているが、これを忘れがちなのは他でもない自分自身であって、この文章は自分への戒めに過ぎない。疲れているときは癒しの瞬間というものを見落としがちだが、それではダメだ。疲れている時こそ、ああ今の幸せが続いてくれと思うことを増やすべきなのだろう。すごく身近なことでいい。

それらを踏まえて考えてみると、ポテトチップスは非常に有能なアイテムだ。半分以上食べ終えてしまったときに「無限に食べられればいいのに」と思うあの瞬間。きっとあれは幸せの絶頂にいるときなのだろう。食べてるときは、そんなこと微塵も考えていないけれど。

 

最後に、いちばん身近な例を忘れてた。予定が何もない日の朝の布団の中。あの瞬間こそベストオブ「この時間が永遠に続けばいいのに」ではないか。